昭和44年05月18日 月次祭



 先程お祭りの前に久保山孝さんが前講を勤めておりました。聞こえますかね後ろの方は聞こえるですか。今日筑水連合会の青年会の総会、又は信心実習会が南久留米教会であった事のお話しをしておりました。中であちらの先生が合楽の青年会が、素晴らしいという事をまぁ話しておられたと。それはこうやってお話しを頂きます時に、こりゃどこの教会に参りましてもそうですけれども、お話の時にどうぞ皆さん、足を楽にと落ち論説教台の上からも言われますし。
 また言われる前に洋服なんか着ておる人は特に、それはもう当たり前の様にして足を崩して楽にして、いわばお話しを頂く。しかも青年のつどいの場合は、みんながそうである。それが方が本当の事のようにしてこの頃はなっておる。そういう中に合楽の青年会の人達は、ひとりも足を崩さなかったとう話しをされたという事なんですよね。ですから皆さんもね大体は神様のお話しを頂く。そのお話しを聞いて助かろうという話しを聞きよる。話しを聞いて助かる道と仰るが。
 それこそ助けて頂かなければならない話しを聞くのに、楽にこうあぐらどんかいてから、お話しを頂いとってよかろうか。そんなこっちゃいけない。という事は分かっておるのにです。分かっておるけれどももう足でも崩さなければ、話を聞く手合が少なくなったという程しに、まぁいうならばお道の信心は程度が、乱れておると言われても仕方がない。そうでしょね。この話しを聞いて助かるのだと、その助かるという話。いうならば神語りである。神様のお話しを頂かしてもらうのに。
 それこそ威儀を正してお話を頂くという事は、そりゃ当たり前の事と分かっておりながら、その当たり前の事がもう崩れてしまっておるのが、私今の金光様の御信心の現状ではなかろうかと思うですね。そこをまぁささやかながらです。本当な事は本当の事としてやり抜こうとしておる私は、行き方をもっておるのが現在の合楽の信心の行き方ではなかろうかとこう思うのです。だから皆さんそういうひとつの合楽の方達は、自負をもってですね、信心を進めていかなければいけんませんです。
 そりゃどこの先生でもどこの信者でも、その話しを聞いて助かるという道を知っている道であるという事も知っている。それを伝えておるのが、言わばこれは私の話しと思わずに、神様のお言葉と思うて頂けという事は知ってる。それに足を楽にしなさい。いや言いなさる前から足を崩すと、楽にして聞くとね。そこに助かる事の出来ない様な状態が、現在あるのじゃないかと。そこで合楽の信心によってです、お互いがこういう信心すりゃ、こういうふうに助かっていけれるんだということをね。
 私は私が頂くだけじゃなくて、頂いて私ひとつ信心の手本を作っていく。そういう使命をね私共が帯びているんだというくらいのね、自負をもっての信心そういう姿勢をもってもらいたいと私は思います。さぁそこでです。私は合楽の皆さんの事でもですけれども、ここで朝晩御理解を頂きますその御理解がですね、確かに高度だとこう思うです。昨日の朝の御理解でしたか、一昨日でしたかね。教学以上の教学だと、御理解の中に出ておりますね。教学以上の教学と。
 言うならばとても哲学なんかでは、分かりえない言うなら信心だと。昨日の朝でしたかね。確か昨日の朝の御理解にそれが出てました。今朝での御理解を頂いてもそれを思います。言うなら最高の教えを頂いて、最高のおかげの頂ける道。そのおかげの頂ける道をみんなが知っておるけれども、それを現しておる者が少ない。先程こんど百十年の記念の団体参拝かね、委員長が話しておられましたが、お湿りがこうやってある。合楽のお月次祭にお祭りにお湿りがある事がないと言う程しにお互いが確信をもっておる。
 それがお湿りがあったと。これは親先生が間違うっちゃるのじゃない信者が、私共が間違っておるんだという頂き方。それも有り難い。しかし私としては皆さんの間違いじゃない。私の間違い。けれどもこれは間違いと言うてもね、一分一厘の間違いのない働きの現れだと私は思うです。合楽のお湿りの時にゃ私がいつも申しますでしょうが。合楽のお湿りの時にゃ、必ずこんなにも間違いないんだと。一分一厘間違いのない働きの中から、このお湿りがあるんだぞという事を分からして頂くために。
 この前の十日のお月次祭はそれこそ風もなくて、もうそれこそしとしとしたそのう五月雨の中に、十日のお月次祭仕えましたでしょ。そうでしょうだから私が言うです。それが間違いのない印に、それがその時限りだけのものじゃない。合楽のお月次祭にお湿りがあったら、必ず2日なり3日かなりつづく3回なりは。もうこれはね一分一厘間違いのない働きの現れです、印です。そのように間違いのないのですよ。成程そのお湿りだからいいということじゃありませんね。
 それはお天気に超した事はありません。又お湿りがなか方がいいに超した事はありませんけれども。そうばかりはいけませんね。そこに信心のお育てを頂かして貰うという事なんですから。その様な事の中から一分一厘間違いのない働きというものが、善しの上にも悪しの上にもあるんだという事を、わからして貰わなければならないと私は思うですね。皆さんそう感じられたでしょう。そのように間違いのない働き。今日特別奉仕員の方達の御祈念をさして頂いた時の御理解がそうでした。
 御神前に私出らして頂たら、こう誰かが鉄砲を撃っておる。その鉄砲の弾がね勢いがぜんぜんないとこういう。そして的はあっちであるのに、こちらを向いたりあちらを向いたりしてきよる。その鉄砲の弾がこういうふうに、あそこに行かにゃならんとに、ここに落ちよるところを頂くんですね。やはりあのう弾でも矢でもですねぇ、やっぱりこのう一直線にパーツと進んで行く勢いがいるんです。こうやって行きよる。そして向こうまでいかんで途中でポテンと落てよるという様な事。
 私は段々お互いがですね、そういう一分一厘間違いのない神様の働きの中にあるのです。そういう働きをここでは見せて頂いておる聞かせて頂いておる。成程この神様は間違いがないんだなという事を皆さんが分かって来た。だからそういう一分一厘間違いのない働きの頂ける所迄、信心を進めていかにゃかんのです。それにはやはり元気な心勢いがいります。生き生きとした心が要ります。同時にやはりひとつの事を焦点としてそれを的として、その的に向かってひとつ本気でその的に向かって引かなきゃいけません。
 弾を込めなければいけませんね。そこで皆さんが今年の焦点的というのは、私はいよいよ明るくねいよいよにこやかにと。よりかねより明るくよりにこやかにということになるのですね。より明るくならして頂こう。しかもよりにこやかでありたい。そういう念願そういう焦点をそこにおいて、そして頂かなければならん。そして日々頂くところの御教えをね一日の信心の支えともして糧ともして、進んでいかなければならない。しかもそれをねひとつの勢いをもって生き生きとした心をもって。
 それを行じていかなければならないという様な御理解を頂いた。皆さんどうでしょうか。その的がね。朝起きたらより明るくよりにこやかにという、焦点に向かっておるでしょうか。心の方が姿勢がそちらに向かっておるでしょうか。よりですよ。より明るくよりにこやかにありたい。それをね例えばその日の御教え。又は御月次祭たんびにしか参ってみえんお方は御月次祭に頂いた、ここぞと思うところをですね。それをより明るくするための、よりにこやかにあられるための、それをよしなともさせて頂いて。
 その事を行じ続けて行かなければいけん。そういう信心からですね、いわゆる百発百中の一分一厘間違いのないおかげが頂ける。それこそ神技とも思われる程の、技が身に付いてくるようにです、信心の徳が身について来るのですよ。ただお参りをしてお願いするだけの信心だったらね。今日は今いうその合楽の信心の素晴らしさということが分かっておるというだけでは駄目だと。分かっておる事を自分の身に付けて行かなければならない。だから皆さんがお話しを頂くでも、それこそ足ひとつ崩すのではない。
 いうなら毅然としてお話しを頂くという、そこまでは本当の事が分かっているんだ。これはそのうお話しを頂くという姿勢だけではなくて、全ての事が分かっているんだ。ですから分かっているところをいよいよ本当なものにしていく為にです、信心修行がなされなければなりません。一分一厘間違いのない働きね、例えば今日のお湿りでも、もう一分一厘間違いのない働きなんですね。十日の月次祭にお湿りがあった。だから神様これでもかこれでもかという意味じゃないですよ。そげん間違とるちゃ思われん。
 それは良きにつけ悪しきにつけ、神様のこの様に間違いのない働きである事を、ひとつ私はそのようなお湿り中からにも、皆さんに分かって頂かにゃいけん。そこで私共がです、その様な間違いのない働きの中に、私共も突入していくというか、そういう間違いのない働きと同時にです。そういう間違いのない働きに合流さして頂くというか、そういう信心にならなければならないということですよ。
 今日は私午後からの奉仕をさして頂いておりますときに、先日古賀先生が句集を送ってくれておりました。俳句こうあのうまぁ雑誌が出来ておる。小雑誌が出来てる。それを私こう読まして頂いとりましたら、もう本当になんでもない句、句としてはいいも悪いも、私分からんのですけれども。にも拘らずその句を読まして頂いたら、嗚咽が出るほどに感激する。ちょうどその時に、あのう鳥栖の上野さんがお参り合わせましたから。
 鳥栖の上野さんにその事をお話しさして頂いたら「先生おかげ頂きました」と、やっぱり私が有り難とうさえなったら、おかげ頂くんだなぁと思うた。自分が今日そのう思うて参って来た事がですね、そういう事だったんですよね。で私がねもうちょっと私はね今泣きよるとこじゃった。この句を読ませて頂いたら、何回も繰り返し繰り返し読ませて頂いておったら、涙が流れて来た。そういう悲しい句でもなかった。
 こういう句でした「双六のなんと裏目の出る日かな」「双六のなんと裏目の出る日かな」皆さんどうですか。なんかこれにぐっと来るですか、来ないでしょ恐らく来ないと思うです。けれども私繰り返し読ませて頂いとったらですね。もう本当に嗚咽が出てですねえ。悲しうなりました。「双六のなんと裏目の出る日かな」と、どうして自分の家にだけは、こんなに難儀な事が続くのであろうかと、私が感じたからなんです。そういう人が世間にはどのくらいあるか分からないということです。
 裏目に裏目に出てゆく。一生懸命働く。だけれどもねけれども楽にはならない。どうして自分の家にだけは呪われた様に、こういう不幸な事ばかり続くのだろうか。裏目に裏目に出るのだろうかと。そういう様な世間の人のそういう声がです、私の心の中に響いてくる感じなんです。私の心それはそのまま天地の親神様の心に響いて来るのです。神様がそれを悲しませる悲しまれる、悲しまれたんだなと私は思いました「双六のなんと裏目の出る日かな」どんなに振ってもどんな振っても。
 今日はもう裏目にばっかりしか出ないと言う。「働けど働けどわが暮らし楽にならざりじっと手を見る」啄木じゃないですけれどね、そういう難儀そういう悲しみをというものをです、持っておる難儀な氏子がどの位世の中にあるか分からない。そういう氏子に向かってどうぞ信心して、おかげを受けてくれよという神様の願いがあるのです。段々読ませて頂いとりましたら、この人はもう恐らくもうお年らしいですよね。こんな句もあるです。「食い慣れしトマトの味を老いて知る」というのがある。
 もう年を取ってからトマトの味が美味しいと分かったというのですから、年を取られたんだろう。恐らくもう60か70になられる方であろう。もう老い先が短いのである。にも拘わらず一生が言わば裏目に裏目に出て来ておるとするならば、もう何とか助かるよすがはないものだろうかとこう思う。なんとか幸せになれる道はないものかと。次にねこれは他の方の句の中に「熱燗や このしおくりは 神棚に」と言うのがありました。これを読んどったら又涙が流れてきた。
 これは悲しい涙じゃなかった。もう有り難たい有り難たい。本当ね、それこそ見捨てる神があるなら、助ける神もあるという感じである。それこそもう年を取ってから、それこそ好きな晩酌で、も頂ける身分になっておられる。しかも子供が送ってくるその、神棚、給料というのは、もう手をつけんで神棚にお供えしてあるというのである。そういう私は生き方がです。私は信心によって頂かれるところにです、神様のお喜びが、そこにあるとこう思うです。
 よう若い時には苦労したけれども、ここまでおかげ頂いてくれたなぁという神様の喜びと安心が、そこに感じられるますでしょう。ですからね私共が本当に例えば熱燗でというかね、自分の好きな言うならば勿体無い程のおかげを蒙ってというのである。あちらを向いてもこちらを向いても、もう本当に神様のお恵みの中にあって、しかもこの様なおかげの中にあって、勿体無い勿体無いという生活がです、頂けれる様になるおかげを頂かして頂く為に私は、本気での信心がなされなければいけない。
 本気での信心の姿勢がなされなければいけない。それにはね私共がここでいや合楽で、現在今年の信心はこれぞという信心に、毎日がそこが目当てでありそれが言うなら信心の的である。今日一日どれほど私はにこやかにあり得たか。どれだけが豊かな心でみんなに接しえたかと。そういうです豊かな心又は明るいより明るくならして頂こうと願う心。そういう心から、最近私が申しております、天地の心というものがです。天地の心というのは、黙って黙って受けてね。
 黙って与えるという様な信心に、私の信心はそういう形をなしてきとります最近。よりねよりにこやかでありたい。よりにこやかでありたいより豊かでありたい。よりにこやかに明るくありたいというその願いがですね。それに焦点をおいてですね。的を引いてみると。なかなかそれに当たらんのです。そしてそこにですね自分の工夫が出来てくるです。こりゃちょっと向きがまぁ間違っておったとか、まぁだ勢いが足りなかったとか。様々な疑問点にぶつかります。
 その疑問点が日々の御理解が支えになって、それを解明してくれます。それを新しい答えを出していってくれます。それが現在の私の答えの中にはそういうようにです、天地の心を心としての信心とはこれだと。何も言う事はいらないのだ。言わんだけではない。そして与えていけれるのだとね。そこから私も助かれば相手も助かる。自他共に助かっていく道が、開けて来るのだという様な事がです、もう具体的に私の信心生活の上に現れてきておる訳なんです。
 ですから皆さんもやはり同じくそこであろうけれどもです。今日の私がそのう、祈念奉仕委員の方達に頂くようにです。確かにそちらの方に向いてもおるけれどもです。その弾が勢いがないために途中から、ポテンと落てておるということ。又は折角そこに的があるのにも拘わらず、的どころか的とはぜんぜん反対の方を向いてから、こうこうやっておるだけ。ただ毎日毎日拝みよるだけ、お願いしよるだけといった様な信心では、いつまでも百発百中というおかげになって来ないということです。
 一分一厘の間違いのない、今朝の御理解の中に私は、この先日波多野さんが私に下さった、あるお寺で精進料理を頂かれた。精進料理が有名である。いうならばお料理でたっておるといった様なお寺さんである。お参りがあるとこれを皆さんに配られる。私の宗教はこういう宗教だと。これはう本当な事だともう実際このとおりだと、私はこの意味はよくはわからないけれども、私は私流にです。金光大神の教えられた道にこれをおし当てて見てから私はそう感じた。
 今朝からお話しをさして頂いた事ですけれども、やはりここですね。この教えではそういう大事な事の三つをですね、三つの宝と呼んでおる。ここでも教祖様はおっしゃっとられます。「三宝様を踏むな、三宝様を踏むと目がつぶれる」と、こういうふうに教えられていますでしょ。深ぁくいってきますとその三宝と同じ事になるですこれはね。三っつの宝と。初めての人の為に読んでみましょうかね。
 生死生き死にと書いてある、「生死大無常迅速光陰惜しむべし、人を待たず、人のみは受くることかたし、今すでに受けたり、御仏の教えは聞くことかたし、今すでに聞きたり、この身この命あらんうちに、悟らずんばいずれの日にか悟ることをえん、世の人ももろもろとともに、一心に三つの宝に、帰依し奉るべしと。」その三つの宝の事を示してございます。それを三帰依文といいますそうですね。三つそしてそれをその三つの宝というふうに大事にしておられます。
 それは「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」とあります。南無阿弥陀仏に帰依せよと、お釈迦様が説かれたあの法というのはです、こりゃもう天地の法則だと。教祖はそこを天地の道理といわれる。天地の道理だと、それをそれに帰依しなければならん。知っただけじゃつまらん。南無帰依僧。これはお釈迦様に帰依せよと言う事でしょうが。いわゆる金光大神への帰依というふうに私は今日申しました。
 その三つのところに開帳の言葉として、世にたぐいなき深みの祝詞は法。のりは真理ことわけと書いてある。ことわけとは甚だ深くして万の世に会い会う事かたし。吾今耳に聞き心に保つ事を得たり 願わくば如来の真実ぎを悟らん事をとありますね。この私は本当にこの通りだと思いますね。ですからこの三つの宝というのは、先ずなんというのもですねえ。いわゆる天、天地に帰依せよね。「神に会いたいと思えば、庭の口に出てみよ。外が神。下が神」と。
 だから金光様でいう神様とは、どげな神様ですか。外に出てみなさい。空を仰ぎなさい。地を拝みなさい。これが神様なんだという訳なんです。だからそれが分かっただけではなくそれを頂くと言う事が信心だとね。天地の大徳を身に付けていく、その天地の大徳を自分の心の中にそれを頂いていく。それを御神徳を受けていくとこういうのである。その御神徳を受けていくためにです、先ずいちおうおかげを頂けとこういう。おかげを頂いていかなければ、神様があるやらないやら分からん。
 神様にそういう働きがあるかどうか分からん。だからここにしきりにお参りをして来る事によって、私が言うこの神様は一分一厘間違いのない事が分ろうがということを、見たり聞いたりする事が出来るのであるね。そういう間違いのない神様に帰依し奉れ、この天地に帰依するんだということ。その帰依した天地の親神様に、例えば御地内をみだりに汚す様な事は出来ないじゃないかと、いった様な御理解を頂き頂きますよね。
 天地に対するところ帰依、言わば天地のお働きがなからなければです、天地のお働きを受けなければです、私共の生きていくことすらが出来ないんだ。天地の親神様のこれは、る知らずを問わずに、もう天地の祖神様の、おかげを頂いておるんだすでに。とここには説いてありますね。それを分からして頂くということが悟ることだ。だから天地の御恵みによらなければ、人間の幸福はないんだとわからして頂くところから、その天地を心をわからしてもらおう、その天地の心が法なのだ。のりであるね。
 仏教ではそれをのりと言う。法と言う。お釈迦様が説かれたそれこそ沢山な経文である。宇宙の真理を説き明かされた。宇宙の法則を説き明かされた。金光大神も同じ事。それをかんで含めるように金光大神は教えられた。そのだから教えに帰依せよと。法に帰依せよと。南無帰依法とある。その法に帰依しなければならん。親先生が仰る事。それをそのまま金光大神様の仰る事として、天地の親神様のお心としてそれを、私共が頂かしてもらうところの、精進稽古を積んでいかなければならないというのである。
 南無帰依僧、僧はぼんさんの僧が書いてある。これは金光大神への帰依であり、それを身近に言うならば親先生への帰依だということ。「親先生あげんいいなさるばってん、そげん訳いかんもんじゃけ」これは帰依しとるようであって帰依しとらんのです。「親先生は信じとる、信じとるばってん言いなさる通りには、そんな訳いかん」本当に帰依するということはです、もうそこに入っていってしまうことです。没我。自分の我というものを、その中に無くしてしまうということなんです。
 自分の思いを捨ててしまう。そこに金光大神といっしょになる、親先生と一体になれるということなんです。そこに例えばなら秋永先生の言葉を借りると「親先生のいっわしゃる通りに、それが地獄道に繋がっておってもさらさらいとわん」ということになってくる訳なんです。「行きよったばってんこりゃまるっきり、こげな事になるとは、思わんじゃった」という事ではない。それはどうであってもそこに帰依し奉るということです。この三つをもってその教えはこれを三宝とこういうております。
 宝。その三つの宝を私共、例えば私が言うこれを説いたり、これを何千枚何万枚配ったところで、配っておるその人がです。それをただ知っておるだけで、自分の信心で現わしておらなければ、是はもう反古紙と同じ事ですよ。そうでしょうが。どんなに素晴らしい天地のそれが、本当のことわけでありましてもです。それを知っておるだけでありましたらばです。論語読みの私は論語知らずといわなければなりません。そこで私は他は知りません。他の教会は知りません。他の宗教は知りません。
 けれども金光教合楽教会でだけではです。それを私がささやかながら現わしておると言うことです。私がこの三つを私自身も、宝として頂いておるということです。そしてそこに一分一厘の間違いのない働きを、私は現わしておるという事です。しかも現わしておる私はまぁだこれから生きる命の有らん限りをです。その本当な事へもっての邁進していく。そして私と共に進んで来てくださる方があるならばです。いっしょに手を取り合うてから、本当な事へ邁進しようというのである。
 ですから皆さんそういう勢いをですね。私はね申しました。例えば松栄会の先生じゃないですけれども、いよいよとてもそれは難しかと思うてもです、それこそ落下傘を抱いて、高い所から飛び降りるぐらいな勢いを持たなければです、向こう方までは届かん。途中で落ちてしまうて弾が。しかもその焦点ははっきりと、的ははっきりと示されておる、元旦のあの教えの中にね、皆さんが行き帰りにご覧になるように、あの高い塔に書いてありますように。
 本年の焦点は「より明るくよりにこやかに」しかもその、より明るくよりにこやかにということを。取り組んでみたら難しいから、それが大変難しいから毎日の御教えを頂かなければ、あれを頂き続ける事が出来ない程に難しい事なんです、この事は。そこのところをです皆さん分からして頂いて、それこそね「双六のなんと裏目の出る日かな」と言うように、世の中にゃ難儀な人哀れな人がどれくらいおるか分からない。人達のためにもね。難儀な人達が、ひとりでも多く助かって行く事の為にも。
 私共が本当の助かり、真実の助かり、なるほど一分一厘間違いのない働きに現れるんだなと、皆さんから認めて頂けるようなおかげをですね、頂いていかなければならないということでありますね。どうぞ百十年の団体参拝の事を、これはどうでもひとつ合楽、合楽全信奉者のお参り運動を私はさして頂こう。そういうひとつの運動が起こらなければだめだと思うんです。
 幸い2回にお参りするんでございますから、6人おれば3人づつお参りしようではありませんか。お金はどげんでんなります。お取次ぎ頂きなさい。時間はどげんでんなります。もう何をおいてでもです。千載一遇のこの時をのがす事があってはならないという、一途な思いを持ってです。どうぞ今度の百十年祭は、又十年しなければ百二十年祭はないというても、百十年祭はこれっきりなんだと。金光大神への帰依なんだね。
 御本部へ対し奉るところの帰依なのである。その帰依の心がです。御本部参拝の事によって現わされるということは、有り難いじゃないですかね。代表で参るから今度参りません。もう合楽の信奉者が全信奉者が、こぞって老いも若きもね、私はひとつお参りのおかげを頂かして頂きたい。そして合楽の力を底力というてんなんてんという意味じゃありません。本当に合楽の信心をですね。ひとつそういうふうに現わして行きたいと思うのでございます。
   どうぞよろしく。